かつて「鉄鋼の都」として世界的な繁栄を極めたピッツバーグは、衰退期を経て医療・教育・テクノロジーを軸とした知識経済へと生まれ変わりました。本記事では、産業構造転換の背景、大学や研究機関、スタートアップを含む新興産業群が示した再生戦略、そして他都市への示唆を探ります。知識・創造性を基盤にした都市再生の教訓を、未来への指針としてご紹介します。
1.はじめに:ピッツバーグの象徴的な役割と変遷
1) ピッツバーグの地理的概要
ピッツバーグは、アメリカ合衆国ペンシルベニア州西部に位置し、オハイオ川、アレゲニー川、モノンガヒラ川が合流する戦略的地点に形成された都市です(図1、図2)。この河川合流点は内陸交通の要衝として資源や人材の流入を可能にし、後に産業発展を支える基盤となりました。こうした恵まれた地理的条件によって、ピッツバーグは資源の運搬や市場へのアクセスが容易になり、将来的な工業化への下地が自然と整えられました。
図1 ピッツバーグの位置
図2 ピッツバーグ市内地図
ピッツバーグとはペンシルバニア州西部に位置する人口約30万人(都市圏人口約237万人、2020年)の産業都市です。人口の推移として1960年代までは約68万人程度いましたが、その後、地域の基幹産業であった鉄鋼業の衰退とともに人口は減少していき、現在は約30万人程度となっています(図3)。
図3 ピッツバーグ市人口推移(U.S. Decennial Census)
2) ピッツバーグの歴史的背景
イギリスによるアメリカ開拓初期のピッツバーグは、防衛拠点および交易の中継点として機能していました。18世紀のフレンチインディアン戦争(七年戦争)では前線基地(オハイオ領土)として要塞が建設されました。
ピッツバーグは、当時のイギリスの政治家ウィリアム・ピット(大ピット)にちなんで1758年に名付けられました。 |
それは、オハイオ川、アレゲニー川とモノンガヒラ川と3つの川に囲まれた恵まれた水運があるからです。南北戦争時にも軍需産業拠点となり、鉄鋼や兵器の生産拠点となりました。
時代を下るにつれ、鉄鋼を中心とした重工業の拠点として頭角を現しました。19世紀から20世紀初頭にかけては、鉄道網の拡張や技術革新が都市の発展を加速させ、石炭などの豊富な資源を背景に、多数の製鉄所や関連工場が集積して経済的繁栄を築き上げました。こうした歴史的経緯により、ピッツバーグは「鉄鋼の街」と呼ばれるほど産業社会において中核的地位を確立しました。
3) 産業都市としての台頭と重要性
地域産業の形成要因として元々アパラチア山脈に位置し、石炭が産出したことから始まります。。産業革命期のピッツバーグは、原材料と労働力の豊富さ、さらに新技術の導入によって大量生産体制を確立し、アメリカ産業界全体に強い影響を与えました。
その繁栄は、国内外への製品供給はもちろん、社会構造や労働者階級の形成にも寄与し、都市としての役割を飛躍的に拡大させました。後にUSスチールの他に、ガルフ石油、ウエスチングハウス、アルコア、ナショナル製鉄、メロン銀行、ハインツなどの本社が立地していました。これらが複合的に作用した結果、ピッツバーグは単なる地方都市を超え、国際的にも注目を集める産業都市へと成長したのです。
【産業都市ピッツバーグの略表】
1787年 ピッツバーグ大学創立
19世紀前半 鉄鋼・兵器の生産拠点
1860年 石油精製所の開設
1875年 アンドリュー・カーネギーがエドガー・トムソン・スチール会社設立
1900年 カーネギー技術学校設立(カーネギーメロン大学の前身)
1901年 USスチール創設
1940年~1984年 製鉄業の雇用の減少 9万人→4.4万人 失業率18%
2004年 ピッツバーグ市財政破たん(Act47適用)
2009年 G20サミット開催
2.鉄鋼産業都市としての繁栄
1) アンドリュー・カーネギーと鉄鋼王国の誕生
ピッツバーグの鉄鋼産業躍進を牽引した中心的人物が、アンドリュー・カーネギー(図5)でした。スコットランド移民の家庭に生まれたカーネギーは、独自の経営戦略と技術革新、さらには合併や買収を通じて規模拡大を図り、巨大な製鋼コンビナートを築き上げました。
彼はベッセマー製鋼法(図4)などの新技術を積極的に導入し、高品質な鋼材を低コストで大量生産する体制を確立したのです。この成果により、鉄道や橋梁、ビル建設などあらゆるインフラ整備が加速し、ピッツバーグは「鉄鋼の都」の異名を得るほどの世界的名声を博しました。
カーネギーの成功物語は、アメリカンドリームの象徴的事例として広く語られ、資本主義社会において産業家や投資家が新たな地位を得る契機ともなりました。
図4 ベッセマー炉
【アンドリュー・カーネギーの略歴】
1835年 スコットランド生まれ
1848年 一家でピッツバーグに移住。その後、電信局通信士などとなる。
1872年 エドガー・トムソン鉄鋼会社を創設。鉄道レール銑鉄で事業を拡大し、鋼鉄への転換に成功。巨大工場を建設し、規模の経済を達成。また、工程の垂直統合を図り、鉱山や橋梁会社などを買収
1889年 アメリカ鉄鋼生産1位
1892年 カーネギー製鉄を創設
1901年 J・P・モルガンに約4.8億ドルで売却し、USスチールが誕生
彼はビジネスで蓄えた富をもとに慈善事業を積極的に行いました。ピッツバーグ市内にあるカーネギー博物館、カーネギーメロン大学は彼の寄付をもとに設立されたものですし、ニューヨークのカーネギーホールも彼の慈善活動の賜物です。
図5 アンドリュー・カーネギー(Theodore C. Marceau – Library of Congress)
2) 都市化と移民労働者の増加による社会変容
20世紀初頭にはピッツバーグには職を求めて国内外から多くの移民労働者が流入しました。彼らは工場や炭坑、運搬業務などさまざまな分野で働き、都市の人口増加とともに消費や需要も拡大しました。この経済的飛躍は、人々の生活水準を高める一方で、都市インフラの整備不足や住宅難、労働環境の改善が求められる課題も浮き彫りにしました。
急激な工業化と都市化は、ピッツバーグを多様性に富む社会空間へと変貌させました。南部から黒人たちやヨーロッパ各地からやってきた移民たちは、自らの文化や言語を持ち込み、新たなコミュニティを形成していきました。また、労働組合の組織化や社会運動の高まりは、労働条件の改善、賃金引き上げ、公衆衛生・教育の向上など、社会正義の追求へと人々を駆り立てました。
このように、ピッツバーグは単なる鉄鋼生産拠点にとどまらず、近代アメリカ社会の諸問題や課題が凝縮された「社会の縮図」としての性格を帯びるようになりました。こうして、鉄鋼産業都市としての繁栄は、経済的繁栄と社会的課題、文化的多様性が交錯する独自の都市像を形作り、後世にわたってアメリカ産業史と移民史における重要なケースとなったのです。
3.産業都市としてのピークと課題
ピッツバーグは、20世紀中期に鉄鋼産業を軸としてアメリカの経済成長を牽引した代表的な産業都市であり、同時にその隆盛は様々な課題を孕んでいました。この時期、都市は膨大な鉄鋼生産量とインフラ整備を誇りながら、一方ではその経済的成功に過度に依存した構造的な脆弱性や、環境汚染、労働環境をめぐる問題を抱えていました。
1) 20世紀中期のピーク期
第二次世界大戦後、ピッツバーグは旺盛な鉄鋼需要を背景に、橋梁や高層ビル、工場設備の建設を支える優れた供給源としての地位を強固にしました。交通網拡張や公共施設の整備が進み、鉄道や河川交通を活用して全米各地へ製品を送り出す体制が整ったのです。この時期、都市は生産量・雇用数ともに頂点を迎え、近代的都市景観の基盤が整えられました。
2) 鉄鋼業依存経済のリスク
しかし、この華やかなピークには、産業構造が極度に鉄鋼産業へ傾斜する危うさが潜んでいました。1960年代から技術革新の遅れや顧客ニーズへの対応の遅れなどから、アメリカの製鉄業は競争力を失っていきました。
多様な産業ポートフォリオを欠いたピッツバーグは、国際市場の変動や新技術の登場によって需要が減退すると、都市全体が大打撃を被る恐れがありました。また、海外からの安価な鋼材輸入による価格競争や、国内の別地域での新興産業勃興など、構造転換への備え不足は後の衰退要因へとつながっていったのです。
3) 環境汚染とインフラ疲弊
ピーク期の大量生産は、同時に深刻な環境問題を引き起こしました。大気汚染や水質汚濁は住民の健康を脅かし、煤煙に覆われた市街地は「スモーキー・シティ」と揶揄されるほどでした。さらに、過剰な生産活動に対応しきれない都市インフラは、老朽化や交通渋滞、住宅不足を生み出し、経済成長の恩恵を十分に享受できない層が拡大するなど、都市生活の質を低下させました。
4.ピッツバーグの衰退と転換期
ピッツバーグは、1970年代から1980年代にかけて、かつての「鉄鋼の都」としての輝きを失い、大規模な構造転換を迫られる局面に立たされました。かつての隆盛を支えた鉄鋼業は、国際競争の激化や技術革新への対応遅れ、世界的な需要変動に直面し、その持続的な優位性を失っていったのです。
1) 大量失業と経済的困窮
鉄鋼業の衰退は、都市に深刻な雇用喪失をもたらしました。長年同じ工場で働いてきた熟練労働者は行き場を失い、失業率の急上昇が地域経済を圧迫します。失業者は再就職先を求めて他都市へ流出し、都市人口は減少の一途をたどりました。コミュニティや家族関係は不安定化し、商店やサービス業も顧客減少によって経営難に陥り、都市全体が経済的苦境に巻き込まれたのです。
2) 都市衰退と治安悪化
経済基盤が崩れ、人口が減少すると、都市インフラの維持管理も困難になります。荒廃した住宅街や空き家が増え、廃工場が目立つようになるにつれ、治安は悪化し、都市のイメージは損なわれました。こうした衰退は、住民の生活環境や地域の結束力を弱めるとともに、投資や事業展開をためらう企業や個人を遠ざけ、ピッツバーグは困難な転換期を乗り越えるための新たなビジョンと戦略を求められることとなったのです。
5.ピッツバーグ再生への挑戦
ピッツバーグは、かつて鉄鋼生産を中心とする産業都市として繁栄し、続く衰退期を経た後、知識経済と創造的産業へと軸足を移すことで新たな活路を開こうとしています。この再生への試みは、単なる産業構造の変化に留まらず、大学や医療機関、研究施設、スタートアップ企業が連携し、公共部門と民間部門が一体となって新しい都市像を育む取り組みです。
1) ルネッサンス計画
1950年代にはピッツバーグのそれまで鉄道施設・倉庫・スラム街であった2本の河川が形作る三角地帯に大規模な都市公園を創出し、新たなオフィスビルを建設する都市再開発を行い、中心部の環境汚染が改善され、この取り組みはピッツバーグ・ルネッサンスと呼ばれました。また、鉄鋼業が衰退した1985年からもルネッサンスⅡとして大規模オフィスビルの建設や公共交通の整備などが行われました。
しかし、多額の公共事業への投資や、ガルフ石油、ウエスチングハウス、アルコア、ナショナル製鉄、メロン銀行は本社をピッツバーグから移転させ、そのことは市の税収の減収を招き市の財政を悪化させました。それらの要因が重なり2004年にピッツバーグ市はAct47 を適用し、財政破たんを宣言しました。
2) 鉄鋼業依存から知識経済へ:大学・研究機関の役割
ピッツバーグが真に再生したと言われるのは、都市再開発による外形的な整備によるのではなく、鉄鋼業に代わって、ピッツバーグは医療関連産業やバイオテクノロジー、情報技術企業の集積地として台頭してからです。
ピッツバーグの再生において、カーネギーメロン大学(1900年創立)やピッツバーグ大学(1787年創立)といった高等教育機関は中核的存在となりました。これらの大学は高度な研究環境を提供し、工学、情報科学、ロボット工学、生命科学など幅広い分野で人材と技術を輩出しています。
高品質な医療サービスや先端的研究施設を擁する医療クラスターは、良質な雇用を生み出すと同時に、周辺地域への波及効果をもたらしました。また、テクノロジー企業の進出に伴い、情報通信インフラやコワーキングスペースなどの充実が進み、グローバルな人材も呼び込むことで都市経済を多元化させています。
その結果、過去には製鉄所が林立していた都市空間に、研究室やインキュベーター施設が点在し、新たな知が蓄積される場へと変貌を遂げたのです。大学と研究機関はイノベーションを生むハブとして地域経済を牽引し始めました。
図6は1971年に竣工した”US Steel Tower”です。64階建てでピッツバーグ一の高さを誇り、USスチールの経済的繁栄を記憶するものです。しかし、現在では、USスチールはテナントとして入居しているのに過ぎず、UPMCが最大のテナントであり、2008年から塔屋にUPMCのサインとなりました。このことは、ピッツバーグの地域の主力産業は鉄鋼業から医療産業へと転換した象徴となっております。
図6 US Steel Tower
UPMCとはピッツバーグ大学メディカルセンター(図7)の略称です。UPMCは、全米有数の規模を誇るメディカル・コンプレックスで、職員数約65,000人、年間収入約120億ドル(JETRO2019)と、大企業と言っても良い規模の組織です。ピッツバーグ市最大の雇用者数を誇っています。
アメリカには、ミネソタ州ロチェスター(メイヨー・クリニック)、テキサス州ヒューストン(テキサス・メディカルセンター)、オハイオ州クリーブランド(クリーブランド・クリニック)などに大規模なメディカル・コンプレックスがあります。医療産業は高賃金なハイスキルな職だけではなく、高度なスキルを求めない職など多様な職を創造するなど裾野の広い産業であり地域経済に大いに貢献します。
メディカル・コンプレックスが形成される要因として、大規模(大学)病院、産業化の受け皿となる企業の存在、政府のバイオ・製薬分野における多額の研究開発投資、国の高い医療・薬価が挙げられます。
図7 UPMC
カーネギーメロン大学は、ロボット工学、機械学習AI、自動運転の研究が盛んで世界的に有名な大学です。コンピュータ・サイエンスでは世界2位に位置しています(クアクアレリ・シモンズ 2023年)。
カーネギーメロン大学は、1900年に鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが設立したカーネギー技術学校と、1913年に銀行家アンドリュー・メロンが設立したメロン工業研究所が1965年に合併し、カーネギーメロン大学となりました。
カーネギーメロン大学との連携を求めて、Googleや Uberなどのシリコンバレーの企業が人材を求めて大規模な研究所を市内に建設したり、大学発ベンチャーの立地が進み、大学と企業が連携する場所としてイノベーション地区が形成されています。
Uberは、2015年にカーネギーメロン大学のロボット研究所の研究者を40人も引き抜き、Uberの自動運転の研究所に移籍させました。 |
3)公共・民間のパートナーシップによる都市再生プロジェクト
都市再生を持続的なものとするためには、公共部門と民間部門の協働が不可欠です。自治体はインフラ整備や治安改善策を打ち出し、企業や大学、非営利組織は投資や人材育成、地域コミュニティ支援など、多面的なアプローチで都市再建を下支えしています。
その中でアルゲニー地域開発協議会(Allegheny Conference on Community Development)は地域の官民のプレイヤーを結び付ける役割を果たしています。アルゲニー地域開発協議会は、ピッツバーグ都市圏ペンシルバニア経済連盟(Pennsylvania Economy League of Greater Pittsburgh)、ピッツバーグ都市圏商工会議所(Greater Pittsburgh Chamber of Commerce)、ピッツバーグ地域連合(Pittsburgh Regional Alliance)を束ねる中心的組織として地域経済活性化の取り組みに貢献しています。
こうしたパートナーシップは、都市政策の透明性や効率性を高め、地域全体を巻き込んだ再生モデルの確立に寄与するのです。
このように、ピッツバーグはかつての製造業依存から脱却し、知識経済と創造性に基づく新たな都市像を描くことで、経済的多様性や文化的豊かさを取り戻しつつあります。都市再生は未だ途上ですが、その挑戦は都市がいかに過去の遺産を活用し、新しい発想で未来へと踏み出せるかを示す好例となっています。
6.ピッツバーグの教訓と他都市への示唆
ピッツバーグがたどった盛衰と再生の軌跡は、産業構造の硬直化が招くリスクや、戦略的な産業多様化と知識経済への転換が地域の将来にいかに重要であるかを示す、貴重な教訓を提供しています。かつて製造業に依存していたこの都市は、痛みを伴う衰退を経験したものの、大学・研究機関や先端医療、テクノロジー分野を活用した新たな発展モデルを構築し、持続可能な再生へと至りました。この経験は、世界各地の工業都市や地方自治体が直面する課題に有益な指針をもたらします。
1) 産業多様化の重要性
ピッツバーグの興亡は、単一産業への過度な依存が地域経済をいかに脆弱にするかを物語っています。市場や技術環境が急変する時代、鉄鋼一本足打法だった都市経済は容易に崩壊しました。
一方で、多様な産業基盤を形成することによって、リスク分散と弾力的な対応が可能となります。この教訓は、他都市においても、製造業からサービス業やクリエイティブ産業へ、あるいはデジタルエコノミーへとシフトする際に有用な示唆を与えるでしょう。
2) 労働力再教育と産業転換
産業転換の成功には、人材育成と再教育が不可欠です。カーネギーメロン大学が生み出す高度技術人材は企業の誘致や起業に結びついています。また、ピッツバーグでは大学や専門機関が、失業した労働者や若年層に新たなスキル習得の場を提供し、先端的な産業群に適応する労働力を育てました。このプロセスは、公共政策による投資や補助、企業との協働を通じて可能となり、他都市が職業訓練プログラムや生涯教育制度を整備する上でもモデルとなり得ます。
3) 持続可能な都市開発と長期的視野
ピッツバーグが再生へ歩んだ道は、短期的な景気刺激策だけでなく、都市計画やインフラ投資において長期的視野を持つことの重要性を示しています。環境負荷の軽減、生活品質の向上、公共交通整備など、サステナブルな開発戦略は都市が豊かさを再構築する鍵となります。他都市も、地球規模の環境問題を踏まえ、長期的展望で持続可能な開発を追求すべきです。
4) コミュニティ参加と都市再生
最後に、都市再生は上からの政策だけでなく、市民が主体的に関わるコミュニティ参加を通じて初めて根付くものです。ピッツバーグにおいては、地域住民、非営利組織、企業、大学が多面的に連携することで、包括的な都市像が描かれました。この協働モデルは、他都市が地域コミュニティの声を取り込み、参加型の政策決定プロセスを確立する際の手本となります。
こうしたピッツバーグの経験は、工業都市の変容期における貴重な実例であり、世界中の地方自治体やコミュニティが、産業多様化、人材育成、持続可能な都市計画、そして住民参加による再生を実現する上で、未来への指針となるのです。
7.おわりに
ピッツバーグが示した都市再生の成功事例は、かつて鉄鋼産業に依存しながらも衰退を経験した地域が、新たな知識経済や創造的産業へと軸足を移すことで、再び活力を取り戻し、持続的な繁栄を目指し得ることを証明しています。この転換は、過去の遺産を生かしながら、多様な人材とアイデアを融合することで新たな価値を創出する戦略的プロセスそのものです。
自治体にとっては、こうした成功例は産業ポートフォリオの多様化や長期的視野に立った都市計画、大学・研究機関との連携による人材育成の重要性を示唆します。
ピッツバーグの事例は、地域ごとの特性や歴史的背景を踏まえながら、環境配慮やコミュニティ参加を重視することで、産業構造の変化に対応できる道筋が存在することを示しています。自治体と若い世代が手を携え、持続可能で豊かな地域社会を築くことは、現代を生きる我々の共通の課題と言えます。
<参考文献>
太田耕史郎(2019)『ラストベルト都市の産業と産業政策: 地方都市復活への教訓』 勁草書房
アンドリュー・カーネギー(2021)『カーネギー自伝-新版』 中央公論新社
中沢潔(2019)「鉄鋼都市からテックハブへと変貌したピッツバーグ」ニューヨークだより,JETRO
佐藤学(2006)「1 ピッツバーグ市財政破綻への歴史的経緯と再生への道」自治体国際化協会