「産業クラスター」という言葉を聞いたことはありますか?シリコンバレーやワインクラスターなど、特定の地域に産業が集中することで経済的な発展が促進されるこの仕組みは、世界中で注目されています。本記事では、マイケル・ポーターのクラスター理論をもとに、そのメカニズムや成長要因、そして成功事例についてわかりやすく解説します。
1 マイケル・ポーターのクラスター理論
1) マイケル・ポーターのクラスター理論とは
クラスターとは、「ブドウの房」を意味する言葉です。クラスターとは企業や供給業者、関連機関などがブドウの房のように連なっている様子から名付けられました。ポーターのクラスターの定義は下記の通りです。
クラスターとは、「大学等の研究機関、特定分野における関連産業、専門性の高い供給業者、サービス提供者、関連業界に属する企業、関連機関(規格団体、業界団体など)が地理的に集中し、競争しつつ同時に協力している状態を指し」、「 クラスター全体として個々が持つ機能価値を高め、イノベーションの創出に効果的に機能している」 |
マイケル・ポーターは経営学者として知られ、競争力のある企業は特定の地域に立地していることに着目しモデル化しました。彼が提唱した「クラスター理論」は、ある地域に関連する企業や産業が集積することで、その地域全体がより高い競争力を持つという考え方です。
例えば、シリコンバレーのように、IT関連企業が集中している地域は情報や技術が共有されやすく、革新が生まれやすいという特徴を持ちます。ポーターは、こうしたクラスターが地域の経済成長や企業の生産性向上に大きく貢献すると指摘しました。
2) クラスターの要素と特徴
ポーターのクラスター理論では、クラスターは「関連する企業、サプライヤー、支援機関、大学、政府機関などが相互に連携し合うネットワーク化されている」としていますが、このネットワークの中で、企業は競争しながらも協力し合うことが重要であり、それにより、新しい技術やアイデアを共有するとされています。また、関連産業が近くに存在することで、優れた人材や専門知識が集まりやすくなります。
結果として、クラスター内の企業は生産性を高め、競争力を強化できるのです。この相互作用は、単一の企業では達成できない成長をもたらし、地域全体の経済発展を促進します。
3)クラスター理論の現代への応用
マイケル・ポーターのクラスター理論は、今日でも多くの地域政策や産業戦略に活用されています。例えば、地方自治体が特定の産業を支援し、その産業に関連する企業や研究機関を誘致することで、新たなクラスターを形成する試みが増えています。
クラスターは単に企業を集めるだけでなく、研究開発の拠点や教育機関との連携を強化することで、持続的な成長を実現できます。これにより、地域ごとに独自の強みを持つ産業集積が形成され、世界的な競争力を持つクラスターが次々と誕生しているのです。
日本では2001年から経済産業省の産業クラスター計画、2002年から文部科学省の知的クラスター創成事業が展開され、各地で産業クラスター創成の取り組みが行われました。
4) 産業集積と産業クラスターの定義上の違い
産業集積と産業クラスターは時に混同されることがあります。
産業集積は、業種に関わらず工場などの生産施設や事業所が集中的に立地することが特徴です。その目的は主にコスト削減や取引コストの低減、情報伝達などで、例として大田区や燕三条、米沢市、倉敷市の水島工業地帯などの工業地域が挙げられています。
一方、産業クラスターは、同一業種の企業が複数立地して、関連会社、大学・研究機関などが集積し、協力と競争を通じてイノベーションや相乗効果を生むことを目的としています。クラスターの特徴として、生産施設だけでなく、研究機関や関連企業も含むことが挙げられます。シリコンバレーやカリフォルニア・ワインクラスター、神戸医療産業クラスターなどが事例として挙げられます。
産業集積と産業クラスターは対立概念ではなく、産業クラスターは産業集積に内包される概念と考えます。
表1 産業集積と産業クラスターの区別
2 産業クラスターの意義と課題
1) 産業クラスターの意義
産業クラスターの中では、取引コストが低減できるだけでなく、関連企業や研究機関が近接していることで、情報や技術の共有が迅速に行われ、生産性の向上や新規事業の創出が期待できます。クラスター内での相互作用は、企業が市場の変化に迅速に対応するための柔軟性を提供します。
さらに、特定の産業で成功を収めたクラスターは、その産業における「中心地」としての評判・ブランドを獲得しやすく、さらなる投資や人材を引き付けることができます。
このような相乗効果をネットワーク効果と言います。産業クラスターのネットワーク効果は、企業や機関が地理的に集中することで、技術革新や取引コスト削減、労働力の確保、ブランド価値の向上といった形で競争力を高め、全体としての産業の成長を加速させる役割を果たしています。
2) 産業クラスターの課題
しかし、クラスターの形成にはリスクも伴います。クラスター内の企業が自己満足に陥り、外部との競争や協力を軽視するようになると、競争力が低下する可能性があります。これを「クラスターの負のロック・イン」と呼びます。産業クラスターが固定的な関係に陥ると、イノベーションが停滞し、クラスター全体が競争力を失う危険性があります。このため、クラスターを形成する際には、外部との連携を維持し、絶えず競争力を強化する努力が求められます。
さらに、クラスターの成功には、地域特性を最大限に活かすことが必要です。地域の資源や技術、人的ネットワークを有効に活用し、企業や研究機関が連携して新たな価値を創造することが求められます。
また、産業クラスターが持続可能な形で発展するためには、地域の経済環境や社会インフラの整備、さらにはグローバルな視点での競争力強化策が不可欠です。
3 クラスターの形成と成長
1)形成要因
産業クラスターの形成には、さまざまな要因が絡み合っています。クラスターは偶然に形成されるわけではなく、地理的要因、人材、インフラ、政策支援、企業間の相互作用などが組み合わさって誕生します。以下は、産業クラスターがどのように形成されるかを説明する主要な要因です。
① 地理的な近接性と自然資源
産業クラスターは、自然資源が豊富な地域に形成されることが多く、この近接性が企業間の連携やサプライチェーンの効率化を促します。特に鉄鋼や鉱業、農業といった資源依存型の産業が発展しやすく、企業が集積することで輸送コストの削減や競争力の強化が実現します。例えば、ドイツのルール地方では石炭と鉄鉱石の豊富さにより鉄鋼産業が栄え、多くの関連企業が集積しました。
② 大学や研究機関の存在
大学や研究機関は、産業クラスターの形成に重要な役割を担います。特に、知識集約型産業では、技術革新や研究開発がクラスター成長の鍵です。大学は新技術の開発や高度な人材育成を行い、企業との連携を通じてスタートアップを支援することで、クラスターの発展に貢献します。具体例として、イギリスのケンブリッジやアメリカのボストンではバイオテクノロジーや製薬企業が集積して世界的なクラスターを形成しています。
③ 企業の先駆者とスピンオフ企業
産業クラスターは、しばしば1つの先駆者企業が地域に進出し、その成功が他の企業や関連産業を引き寄せることで形成されます。先駆者企業は、技術やノウハウを共有し、関連産業の成長を促進します。また、成功した企業の社員が独立して新たな企業(スピンオフ企業)を設立することで、イノベーションが加速し、クラスター全体が成長します。例えば、シリコンバレーでは、HPやフェアチャイルドセミコンダクターが地域のテクノロジークラスターの基盤を築き、数多くのスピンオフ企業が誕生しました。
④ インフラとロジスティクスの整備
効果的なインフラ整備は産業クラスター形成の重要な要素です。特に、空港や港湾、高速道路などの輸送インフラが整っていると、原材料や製品の移動が容易になり、企業が集まりやすくなります。また、インターネットなどのデジタルインフラが発展した地域では、テクノロジー産業のクラスターが形成されやすいです。例えば、ヨーロッパ最大の港湾を持つロッテルダムは、物流や製造業のクラスターとして発展しています。
⑤ 政府の支援と政策
政府の政策や支援はクラスター形成に重要な役割を果たします。税制優遇措置や補助金、産業支援プログラムが企業の集積を促し、クラスターの成長を助けます。インセンティブとして、税制優遇やインフラ投資が行われ、規制緩和も企業集積を促進します。例えば、シンガポールでは政府の主導による産業クラスター政策により、バイオテクノロジーや金融テクノロジーのクラスターが発展しました。また、台湾の新竹でも政府主導でコンピュータ・半導体産業のクラスターが形成されました。
⑥ ネットワーク効果と企業間連携
クラスター内での企業同士のネットワーキングや連携は、新たな企業を引き寄せ、知識や技術のスピルオーバーが促進されます。これにより、イノベーションが生まれやすくなり、企業間の協力と競争がクラスター全体の成長を後押しします。例えば、デンマークのクリーンテクノロジークラスターでは、企業が協力して環境技術を共有し、共同開発を進めています。このように、ネットワーク効果がクラスターの活性化に貢献しています。
⑦ 文化とイノベーションの風土
クラスターが形成される地域には、革新を受け入れる文化や起業家精神が根付いており、これが企業の集積を後押しします。特に、リスクを取る企業が成長しやすい環境では、ベンチャーキャピタルやエンジェル投資家の支援によりスタートアップが活発化します。例えば、イスラエルのテルアビブでは起業家精神が強く、テクノロジーやサイバーセキュリティのクラスターが形成され、スタートアップの成長が促進されています。
産業クラスターの形成は、地理的な条件、インフラの整備、大学や研究機関、政府の政策、そして企業間のネットワークなど、複数の要因が組み合わさって進行します。これらの要素が揃うことで、企業は互いに連携しながら競争を通じて成長し、結果として地域経済が活性化されます。クラスター形成を促進するためには、政府や地域社会がそれぞれの要因をうまく活用し、企業や人材を引き寄せる環境を作り出すことが重要です。
2) 産業クラスターの成長要因
産業クラスターを成長させる要因は、産業クラスターの形成の要因と同様に、企業間の協力、インフラの整備、人材の供給、政策支援など、複数の要素が絡み合っています。クラスターの成長には、外部からの影響だけでなく、内部の相互作用も重要な役割を果たします。以下に、クラスターを成長させる主要な要因を説明します。
① イノベーションと技術革新
クラスター内での技術革新とイノベーションは成長の重要な推進力です。企業が新しい技術や製品を開発し、競争力を高めることで、クラスター全体が発展します。密集した企業や研究機関間で知識のスピルオーバーが起こり、イノベーションが生まれやすい環境が整います。さらに、オープンイノベーションにより、クラスター内外のパートナーと技術を共有することで革新が加速します。例えば、シリコンバレーはこうした連携で急速に成長しました。
② 人材の供給とスキルの蓄積
クラスターの成長には、高度なスキルを持つ人材の確保が不可欠です。大学や研究機関、職業訓練プログラムを通じて、クラスター内の企業は必要な人材を継続的に獲得し、人材の質を向上させます。大学や専門学校が近隣にあることで、企業は迅速にスキルを持つ労働力を採用でき、関連企業が集まることで専門知識や技術が共有され、労働者のスキルも向上します。
③ 企業間の連携と競争
クラスターの成長は、企業間の競争と連携のバランスによって支えられます。競争を通じて新技術や効率的な製品が開発され、連携によりサプライチェーンの強化や共同研究が進み、相互の成長が促進されます。競争が革新を促進し、協力がシナジー効果を生み出すことで、クラスター全体が発展します。例えば、デトロイトの自動車クラスターでは、3大自動車メーカーとサプライヤーが競争と協力を通じて技術革新を推進しました。
④ インフラとアクセス
クラスターの成長には、物理的インフラ(交通、物流、エネルギー)とデジタルインフラ(インターネット、通信)の整備が不可欠です。効率的なインフラは企業活動を支え、新規企業の参入を促進します。整備された交通・物流インフラにより、港湾や空港、道路網がサプライチェーンの効率化とクラスターへのアクセス向上に寄与します。また、デジタルインフラが整っていると、特にテクノロジー産業で企業活動が活性化します。
⑤ 政策支援と規制緩和
政府の政策支援や規制緩和は、クラスターの成長を促進します。税制優遇措置を通じて、クラスター内の企業は投資や事業拡大に積極的になり、さらに研究開発への助成金や補助金がイノベーション活動を後押しします。これにより、企業の成長が促進され、クラスター全体の発展が加速します。例えば、シンガポールのバイオポリスでは、政府の強力な支援政策によって研究開発が活発化し、バイオテクノロジー分野のクラスターが急速に成長しました。
⑥ 資本と投資の供給
クラスターの成長には資本や投資の豊富な供給が不可欠です。ベンチャーキャピタルや金融機関が企業に必要な資金を提供することで、スタートアップの創業や拡大が進み、イノベーションが加速します。特にスタートアップが多いクラスターでは、ベンチャーキャピタルやエンジェル投資家の資金が重要な役割を果たします。また、株式市場への上場や債券発行が容易な地域では、企業が成長に必要な資本を迅速に確保できます。シリコンバレーやテルアビブでは、豊富なベンチャーキャピタルがスタートアップの成長を強力に支えています。
⑦ ブランド力と評判
クラスターが国際的に評価され、その産業に特化したブランド力を持つことは、成長に大きく寄与します。評判の高いクラスターは「革新の拠点」として認識され、企業や投資家を引き寄せ、さらに多くの人材や資本が集まります。この集積効果により、サプライチェーンが強化され、新たなビジネスチャンスが生まれます。例えば、シリコンバレーはテクノロジーとイノベーションの中心地として世界的に知られ、多くの企業や投資家を引きつけています。
⑧ グローバルなつながり
クラスターが国際的な市場やサプライチェーンにアクセスできることは、成長を促進する重要な要素です。グローバルなつながりにより、他国からの投資や技術が流入し、クラスターの成長が加速します。海外からの投資や輸出入が盛んなクラスターは、世界市場の需要を取り込み続け、さらに発展します。また、国際企業の参入によって技術移転や知識共有が行われ、成長の原動力となります。上海の自動車クラスターは中国メーカーの他にVWやGMなどの進出により成長しています。
産業クラスターの成長には、イノベーション、人材の供給、企業間の連携、インフラの整備、政策支援、資本の供給、評判やブランド力、そしてグローバルなつながりが重要です。これらの要素が組み合わさることで、クラスターは持続的に成長し、地域や産業の発展に寄与します。
4 産業クラスターのライフサイクル
1)ライフサイクルサイクル
産業クラスターのライフサイクルは、通常、形成から成長、成熟、そして場合によっては衰退へと至る一連の段階を経ます。このライフサイクルは、地域経済の発展と産業の変遷に密接に関連しており、クラスターがどのように発展し、どのような挑戦に直面するのかを理解するために役立ちます。それぞれの段階について説明します。
① 形成期 (Emergence)
クラスターの初期段階では、まだ存在しないか、非常に初期の段階にあります。クラスター形成のきっかけとして、新技術や革新的なアイデアが特定の地域や産業に集中することが挙げられます。また、リーダー企業や研究機関が中心となって知識や技術を共有し、クラスターの基盤を作ります。さらに、政府の政策支援が重要で、スタートアップやイノベーションを支援する政策やインフラ整備がクラスター形成を促進します。例えば、シリコンバレーはスタンフォード大学と早期の技術企業の影響で1940〜1950年代に形成されました。
② 成長期 (Growth)
クラスターが注目を集め、急速に発展する段階では、いくつかの特徴が見られます。まず、多くの企業が地域に集まり、サプライチェーンや関連サービスが整備されます。次に、企業間で知識や技術が共有され、イノベーションが加速します。また、雇用が拡大し、高度なスキルを持つ人材が集まりやすくなります。さらに、外部からの投資やベンチャーキャピタルが増加し、クラスター全体の成長を支えます。集積が集積を呼ぶ段階と言えます。例として、ボストンのケンブリッジでは、1978年のバイオジェンの創業以降、1980~1990年代にバイオテクノロジークラスターが急成長しました。
③ 成熟期 (Maturity)
クラスターが十分に発展し、安定期に入ると、成長の鈍化や競争の激化が特徴となります。新しい企業の参入や技術革新のスピードが減少し、既存の大企業が市場を支配します。同時に、資源や人材を巡る競争が激化し、賃金やコストが上昇します。さらに、業界標準が確立され、企業間の連携が一層進みます。例えば、シリコンバレーは2000年代に成熟期を迎え、Apple、Google、Facebookといった大企業が支配的となり、スタートアップ間の競争が激化しました。
④ 衰退期 (Decline) あるいは 再生期 (Renewal)
クラスターが衰退に向かう段階では、新しい技術やビジネスモデルに対応できず、イノベーションが停滞し、他地域や他産業に劣勢となります。また、競争激化や規制の増加、資源の枯渇などでコストが上昇し、競争力が低下します。しかし、技術革新や政策の転換によって再生のチャンスもあります。環境技術の導入やデジタル転換により、クラスターが再活性化されることもあります。例えば、アメリカ・オハイオ州アクロンでは、タイヤ産業の衰退後、現在ではポリマー技術を中核技術として新たな産業づくりが進められています。
図1 クラスター・ライフサイクル
(Menzel M., Fornahl D. (2010)を著者加筆・修正)
産業クラスターのライフサイクルは、形成、成長、成熟、衰退または再生という4つの段階を経ることが一般的です。衰退後に消滅するのではなく、適応、刷新、変革により再生を果たすことがあります。このサイクルを理解することで、地域や政府、企業がどのようにクラスターを発展・維持し、持続可能な経済成長を実現するかについての洞察が得られます。また、技術の進化や政策の変化がクラスターに与える影響も重要です。
2)ライフサイクルの要因
産業クラスターのライフサイクルが起きる理由は、経済、技術、人材、政策、競争環境などの多くの要因が変化するためです。クラスターは、時間の経過とともにさまざまな影響を受け、その結果、形成、成長、成熟、衰退または再生といった段階を経験します。以下に、クラスターのライフサイクルが起こる主な理由を説明します。
① 技術革新と産業構造の変化
技術が急速に進化することで、特定の技術に依存するクラスターが他地域や企業に後れを取る可能性があります。新技術の登場により、従来のクラスターの競争力が低下し、代替技術が出現することで既存産業の優位性が失われることもあります。クラスターは、最新技術に適応するか、新たな産業に転換する必要があります。例えば、製造業中心の都市がデジタル経済の台頭に適応できず、技術産業への転換に失敗すると衰退することがあります。
② 競争の激化とコストの増加
クラスター内で多くの企業が集積すると、資源や人材を巡る競争が激化し、コストが上昇します。これは成長期から成熟期にかけてよく見られ、企業は利益率の低下に直面し、他地域や国に移転することもあります。特に、土地や労働力のコストが高騰することで、企業が対応できなくなり、クラスターが衰退に向かうことがあります。例えば、シリコンバレーでは地価や生活費の上昇により、多くのスタートアップがテキサス州など他の地域に移転する傾向が見られます。
③ 人材の変化
クラスターが成長すると、高度なスキルを持つ人材への需要が急増しますが、供給が追いつかない場合、労働力不足が成長の制約となります。これにより、企業が他の地域に移転する動きが生じることがあります。また、労働者がより良い機会を求めて他地域に移動することで、クラスターの衰退が加速することもあります。例えば、テクノロジー分野では、急成長する企業が必要とするスキルを持った労働者が不足すると、クラスター全体の成長が鈍化します。
④ 政府の政策と支援
政策の変化はクラスターの成長に大きな影響を与えます。政府の支援やインセンティブが減少したり、規制が厳しくなると、企業の競争力が低下し、他の地域に競争優位を奪われる可能性があります。特定の規制強化によって企業コストが増加し、クラスターの魅力が低下する一方、規制緩和や税制優遇措置の提供により、新たな成長機会が生まれることもあります。例えば、テクノロジー産業では、政府の研究開発支援や税制措置が成長を促進し、逆に規制強化は発展を阻害します。
⑤ 市場の需要と国際競争
クラスターの発展は市場の需要に依存し、需要が減少すると企業は他地域や国との競争に打ち勝てなくなります。さらに、グローバル化による国際競争の激化により、企業はより安価な労働力や資源を求めてクラスター外に移転する可能性があります。これにより、特定の産業クラスターは新たな競争環境に直面し、競争力が低下することがあります。例えば、自動車産業のクラスターは、グローバルサプライチェーンの変動や新興国の低コスト製造に直面して再編されることがあります。
⑥ イノベーションの枯渇
クラスター内でイノベーションが停滞すると、競争力が低下し、他地域や他国に取って代わられる可能性があります。企業が既存のビジネスモデルに固執し、新しいアイデアや技術を取り入れない場合、クラスター全体が衰退に向かうことが多いです。例えば、デトロイトの自動車クラスターは、ジェーン・ジェイコブズが指摘したように長期的な技術革新の停滞により、日本やドイツの自動車メーカーに市場シェアを奪われ、競争力を失った代表例です。イノベーションの継続がクラスターの成長維持に不可欠です。
⑦ 新たなクラスターの台頭
新しい技術や産業が発展する地域が現れると、既存のクラスターの地位が揺らぎます。新たなクラスターは、効率的なインフラや政策支援、産業のニーズに応じた環境を提供し、旧クラスターに取って代わることがあります。例えば、旧来の製造業クラスターが、バイオテクノロジーやITクラスターに取って代わられる現象が新興産業でよく見られます。
産業クラスターのライフサイクルは、技術、経済、政策、人材などの環境変化に大きく影響されます。特に、技術革新のスピードが速い現代では、クラスターのライフサイクルも短縮される傾向にあり、クラスターがこれらの変化に柔軟に対応し、持続可能な成長を実現するためには、企業間の協力と競争のバランス、地域内外のアクターとのオープンなコミュニケーション、継続的なイノベーションへの取り組みが重要です。
5 産業クラスターの事例
世界各地には産業クラスターを形成して地域経済の活性化に貢献している地域があります。ここではカリフォルニアのワインクラスターと神戸の医療産業都市、および様々な産業のクラスターの事例を紹介します。
1)カリフォルニアのワインクラスター
ポーター教授は、クラスターの代表例としてカリフォルニアのワインクラスターを取り上げています。そこでは、ブドウを作る農家だけでなく、ワインをつくる醸造所、そこに納入するビンや樽などの業者、ワインの研究や人材育成を担う大学、ワインのブランド化などを担う州政府や業界団体があり、世界のワイン産業の中心地となりました。そして、そこはワインだけでなく他の食品クラスターや観光クラスターと融合することで競争力を高めています。以下に、カリフォルニアのワインクラスターの特徴やその形成、成長について説明します。
図2 カリフォルニア・ワインクラスターの構成図
(ポーター(2018)『競争戦略』を修正)
カリフォルニアのワインクラスターは、世界的に有名なワイン生産地域であり、特にナパバレーやソノマバレーがその中心地として知られています。このクラスターは、ワインの生産だけでなく、観光、技術革新、ブランディング、輸出など、さまざまな経済活動が結びついて形成されています。カリフォルニアのワインクラスターの成功の条件を以下に紹介します。
① 地理的条件
カリフォルニアのワインクラスターの成功は、その優れた地理的条件に大きく依存しています。特にナパバレーとソノマバレーは、ワイン造りに最適な気候と土壌を持っています。カリフォルニアの地中海性気候は温暖で、昼夜の寒暖差が大きく、ブドウ栽培に適しています。また、ナパバレーとソノマバレーは多様な土壌を有し、さまざまな種類のブドウ栽培が可能です。さらに、山岳地帯に囲まれたこれらの地域は安定した気候を提供し、質の高いワインの生産を支えています。
② 歴史的背景
カリフォルニアのワインクラスターは19世紀にスペインの宣教師によって始まりましたが、本格的に成長したのは20世紀に入ってからです。19世紀のゴールドラッシュに伴い、ヨーロッパからの移民がワイン製造技術を持ち込み、産業の基盤を築きました。特に1976年の「パリスの審判(パリ・テイスティング)」で、カリフォルニアワインがフランスワインに勝利したことが、世界的にその品質を認められる転機となり、カリフォルニアワインの評価を大きく高めました。
③ 技術革新と研究機関の影響
カリフォルニアのワインクラスターは、技術革新と研究機関の貢献により成長を続けています。特に、カリフォルニア大学デービス校(UCデービス)は、ワインの醸造技術やブドウ栽培の科学的研究で世界的に評価され、卒業生が各地でワイナリーを運営し、産業の質を向上させています。さらに、カリフォルニアのワイナリーでは、気候制御や灌漑技術を導入し、持続可能で高品質なワインを生産しています。ドローンやセンサー技術を用いてブドウ畑の管理を効率化している例もあります。
④ 企業間の連携と競争
カリフォルニアのワインクラスターは、協力と競争のバランスが取れた環境がその特徴です。大手ワイナリーから小規模なブティックワイナリーまでが共存し、技術やマーケティングの知識を共有することで、世界市場での競争力を強化しています。協力の文化として、ワイン生産者や関連企業(瓶詰め、コルク、ラベルなどのサプライチェーン)が密接に連携し、クラスター全体の強化に寄与しています。
一方で、各ワイナリーは独自のブランディングや品質向上を目指して競争し、競争が品質の向上やイノベーションを促進しています。特に、カリフォルニアではワインツーリズムが盛んで、ワイナリーが観光業と連携してワインテイスティングツアーなどを展開し、ナパバレーなどで観光とワイン産業の相乗効果が発揮されています。このように、協力と競争の両立が、クラスター全体の発展を支えています。
⑤ 市場とブランド力
カリフォルニアのワインクラスターは、強力なブランド力と広範な市場を持ち、国内外で高い需要を誇ります。特にナパバレーやソノマバレーのワインは、高級品としての地位を確立しており、そのブランドイメージがクラスターの成長を支えています。さらに、カリフォルニアワインはヨーロッパやアジアを含む国際市場で人気があり、輸出の拡大がクラスター全体の成長を加速させています。例えば、ナパバレーのカベルネ・ソーヴィニヨンは世界的に高く評価され、高価格で取引されています。
⑥ 持続可能性と環境への配慮
カリフォルニアのワインクラスターは、環境への配慮や持続可能性に重点を置いています。多くのワイナリーが有機栽培やバイオダイナミック農法を採用し、持続可能な栽培方法を導入しています。また、水不足が深刻なカリフォルニアでは、効率的な灌漑技術や水リサイクル技術が重要で、環境に優しい生産技術が広く取り入れられています。例えば、ナパバレーのフログスリープ・ワイナリーは有機栽培を実践し、持続可能なワイン生産を行っています。
カリフォルニアのワインクラスターは、気候や地理的条件の優位性に加え、技術革新、企業間の協力、強力なブランド力、研究機関の貢献、そして持続可能な生産方法の導入によって成長してきました。このクラスターは、ワイン生産だけでなく、観光業や環境への配慮、国際的な市場拡大にも成功しており、他の産業クラスターのモデルともいえる存在です。
⑦特徴と課題
カリフォルニアのワインクラスターは、いくつかの特徴と課題を抱えています。まず、このクラスターの大きな特徴の一つは、地理的条件の優位性です。ナパバレーやソノマバレーといった地域は、温暖な地中海性気候と多様な土壌を有し、ワイン生産に理想的な環境が整っています。この地理的な特性が、質の高いブドウ栽培を可能にし、世界中で評価される高級ワインの生産を支えています。
また、カリフォルニアワインは強力なブランド力を持ち、特にナパバレー産のワインは高級品として世界的に認知されています。こうしたブランドイメージが、国内外での市場拡大を推進している点も大きな特徴です。
さらに、技術革新が進んでおり、灌漑技術や気候制御技術の導入により、持続可能なワイン生産が行われています。カリフォルニア大学デービス校などの研究機関との連携も、クラスター全体の技術革新を後押ししている重要な要素です。さらに、ワインツーリズムが地域の産業と観光を結びつけ、経済的なシナジーを生み出していることも、このクラスターの特徴的な側面です。
一方で、いくつかの課題も存在します。まず、気候変動の影響が深刻化しており、地球温暖化による気温上昇や降水パターンの変化がブドウ栽培に大きな影響を与えつつあります。気候の不安定さが、生産量や品質にリスクをもたらしているのです。
さらに、カリフォルニア全体が水不足の問題に直面しており、特に灌漑に依存するブドウ栽培にとって、効率的な水の利用が必要不可欠です。加えて、ワイン市場における国際競争も激化しており、新興国のワイン産地との競争力を維持するために、カリフォルニアのワイン産業は品質向上とマーケティングの強化が求められています。
最後に、労働力や土地価格の上昇により、生産コストが増加している点も課題の一つです。特に、ナパバレーなどの高価な地域では、新規ワイナリーの設立が難しくなっている状況です。
2)神戸医療産業都市
神戸医療産業都市(Kobe Medical Industry City)は、日本の兵庫県神戸市に位置する大規模な医療関連クラスターです。1995年の阪神・淡路大震災後の都市復興と地域経済活性化を目的に、神戸市が主導して設立されました。このクラスターは、医療技術、バイオテクノロジー、製薬、医療機器開発など、多岐にわたる分野にわたり、産学官の連携を強化しながら進化してきました。神戸医療産業都市は、日本の医療産業を牽引する中心地の一つです。
以下に、神戸医療産業都市の特徴、成り立ち、取り組みなどについて詳しく説明します。
①成り立ちと背景
神戸医療産業都市は、1995年の阪神・淡路大震災を契機に、神戸市の再生プロジェクトの一環として計画されました。大震災後、被災地の経済復興と雇用創出を目指し、神戸市は新たな産業基盤として医療産業に注目しました。これにより、人工島であるポートアイランドを拠点にした医療産業都市構想がスタートし、医療機関や研究機関が集積するクラスターが形成されました。ポートアイランドは、医療技術やバイオテクノロジー、製薬、医療機器開発など、多岐にわたる分野が集中するエリアとなり、産学官の連携を強化しながら成長を続けています。医療関連の研究機関と企業が一体となって進化を遂げ、神戸市は国内外からの評価を高める医療クラスターの中心地として成長を遂げました。
②主要な機関と施設
神戸医療産業都市には、世界的に有名な医療・バイオ関連の研究機関や医療機関が多数集積しており、産学官の連携を通じて医療技術の革新と発展を支えています。中核的な研究機関である理化学研究所 (RIKEN) 神戸キャンパスでは、バイオテクノロジーやゲノム解析、iPS細胞の最先端研究が進められています。また、神戸大学医学部附属病院は先進的な臨床研究と治療技術の実用化に取り組み、地域医療と国際医療の双方で貢献しています。さらに、先端医療研究センターは再生医療や細胞治療の研究と実用化を推進しており、神戸医療イノベーションセンター (KCMI) では、新たなバイオテクノロジーや医療機器の開発を支援し、スタートアップやベンチャー企業の育成を行っています。これにより、神戸医療産業都市は日本を代表する医療クラスターとなっています。
③ 産学官連携とオープンイノベーション
神戸医療産業都市は、産学官の連携を強化し、オープンイノベーションを推進しています。特に、研究機関、大学、企業が協力して新しい医療技術や製品の開発に積極的に取り組んでいます。国内外の製薬企業や医療機器メーカーがこの地域に拠点を構え、研究機関と連携して新薬や医療機器の開発を進めています。
また、ベンチャーキャピタルやインキュベーション施設が整備され、医療関連スタートアップを支援する体制も整っており、新しい技術やアイデアが実用化されています。具体的には、シスメックスやエーザイ、千寿製薬などの大手企業が神戸医療産業都市に研究施設を設立し、バイオテクノロジーや医療機器の開発に貢献しています。このように、産学官の連携によるイノベーションが都市の成長を支えています。
④ 再生医療とiPS細胞研究の拠点
神戸医療産業都市は、特に再生医療やiPS細胞に関する研究で世界的に注目されています。ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授のiPS細胞研究が再生医療の新たな可能性を切り開き、神戸を先端医療技術の中心地にしました。神戸医療産業都市内の研究機関は、iPS細胞を利用した新しい治療法の開発に積極的に取り組んでおり、難病治療や臓器再生の分野での応用が期待されています。
具体的には、理化学研究所と神戸大学が連携し、iPS細胞を使った心臓や網膜の再生医療に関する研究が進行中で、再生医療の実用化に向けた大きな一歩を踏み出しています。このように、神戸医療産業都市はiPS細胞研究をはじめとする先端医療の拠点として、世界的な存在感を示しています。
⑤ 持続可能な成長と未来の展望
神戸医療産業都市は、今後も持続可能な成長を目指し、医療技術の革新と地域経済の活性化を両立させる取り組みを進めています。特に、高齢化社会への対応や、AI・ビッグデータを活用した医療のデジタル化が重要視されています。デジタルヘルスケア分野では、AIを活用した診断技術や、ビッグデータ解析を用いた患者ケアの改善が進行中です。また、再生医療や遺伝子治療といった次世代医療技術の研究と実用化が進められ、神戸医療産業都市は引き続き医療イノベーションの中心地としての役割を果たしています。これにより、地域経済の成長と革新的な医療技術の開発が進展し、神戸は持続可能な医療都市としての発展を続けるでしょう。
神戸医療産業都市は、医療技術の革新と産学官の連携を通じて、神戸市の経済復興と地域の活性化を成功させたモデルケースです。再生医療やiPS細胞研究をはじめとする先進的な医療技術の拠点として、国内外での評価を高めており、今後も国際的な医療拠点として成長が期待されています。
⑥特徴と課題
神戸の医療産業都市の集積状況として、進出企業・団体は361社(2024年)、雇用者数は約12,700人、市内経済効果は1,526億円(2020年)となっています。具体的なイノベーションとしては、iPS細胞を用いた世界初の網膜シート移植手術の実施などが挙げられます。これは、神戸医療産業都市が推進する先端医療技術の研究開発の成果の一つであり、再生医療分野における画期的な進展を示しています。
しかし、神戸医療産業都市にもいくつかの課題があります。まず、研究開発に必要な高度な人材の確保が難しく、他の国際的な医療クラスターとの競争も激化しています。特に、ボストンやシンガポールなどのバイオメディカルハブと比べると、まだ規模や影響力で劣る部分があるため、さらなる人材育成と国際的な競争力の強化が求められています。また、スタートアップや中小企業の資金調達が十分でない場合があり、特に初期の研究開発段階での支援強化が必要です。さらに、地域の産業基盤を拡大し、医療産業以外の分野との連携を促進することで、持続可能な成長モデルを確立することも課題です。
こうした特徴と課題を踏まえ、神戸医療産業都市は、今後も医療技術の革新と地域経済の活性化を両立させ、世界的な医療クラスターとしての競争力を高めるための取り組みを続けていくことが重要です。
3) 様々な産業のクラスター
世界には他にいろいろな産業のクラスターがあります。
①ミラノ ファッション産業クラスター
ミラノは世界的なファッション都市で、デザイナー、製造業者、ブランドが集積し、最新のトレンドやスタイルを発信する中心地です。多くのファッションショーや展示会が開催され、世界中のバイヤーやクリエイターが集まるクラスターです。
②ロンドン 金融業クラスター
ロンドンは世界有数の金融センターで、銀行、投資会社、保険、証券取引所など多くの金融機関が集積しています。多国籍金融企業の拠点が多数存在し、金融サービスや資本市場の活動が活発なクラスターとなっています。
③ハリウッド 映画産業クラスター
ハリウッドは映画制作の中心地で、映画制作会社、俳優、監督、脚本家、技術者が集まり、映画産業を支えるクラスターです。アメリカだけでなく、世界中の映画産業に影響を与える、最も重要な映画制作拠点の一つです。
④今治海事クラスター
今治市は日本有数の造船・海運業の拠点で、造船会社、船舶関連企業、海運企業が集まり、造船技術と海事サービスを提供するクラスターです。世界的にも高い評価を受ける造船技術を有し、日本の海事産業を支える地域です。
⑤新潟 おせんべいのクラスター
新潟県はおせんべいの主要生産地で、多くの製造業者が集まり、新潟県食品研究センターを中心におせんべいの製造技術や品質を向上させています。伝統的な製法を守りながらも新たな味や形を開発し、国内外で人気を博するおせんべい産業クラスターを形成しています。
【参考文献】
M.ポーター(2018)『[新版] 競争戦略論Ⅰ・Ⅱ』ダイヤモンド社
・クラスター理論について詳しく学びたい人は必ず手に取ってください。
松原宏編(2012)『産業立地と地域経済』放送大学
・放送大学向けのテキストです。いろいろな産業の立地と地域経済についてわかりやすく解説しています。
石倉洋子・藤田昌久・前田昇・金井一頼・山崎朗(2003)『日本の産業クラスター戦略』有斐閣
・産業クラスターの構造や意義について詳しく解説しています。
<論文>
・清水希容子(2013)新潟県における米菓産業の産地形成とイノベーション『産業学会研究年報』第28号
・Menzel M., Fornahl D. (2010), “Cluster life cycles – dimensions and rationales of cluster evolution”, Industrial and Corporate Change, vol. 19 pp. 205-238
<Web>