
- 1.はじめに
- 2.第1の繁栄――17~18世紀の植民地商業都市
- 3.最初の衰退――18世紀後半、ニューヨークとフィラデルフィアへの敗北
- 4.第2の繁栄――19世紀前半の海運都市への再生
- 5.第3の繁栄――海運都市から工業都市へ
- 6.第2の衰退――1920~1980年の「失われた60年」
- 7.第4の繁栄――1980年代以降の「知識都市」への転換
- 8.なぜボストンはデトロイトにならなかったのか
- 9.ボストン再生の核心――「産業」ではなく「能力」が継承された
- 10.2003年以降のボストン――グレイザーの仮説は現在も成立するのか
- 11.成功が生み出した新しい問題――住宅価格
- 12.ボストンの盛衰から得られる都市再生への示唆
- 13.まとめ――「変わらなかったから生き残った」のではなく「変わり続けたから生き残った」
- 参考文献・参照資料
- <関連記事>
1.はじめに
アメリカ東海岸のボストンは、現在ではハーバード大学やMITを中心とする大学・研究機関、高度医療、バイオテクノロジー、金融、専門サービスなどが集積する世界有数の知識集約型都市として知られています。しかし、その発展は決して一直線ではありません。17世紀以来、ボストンは何度も主要産業を失い、そのたびに深刻な停滞や衰退に直面してきました。
ハーバード大学の経済学者グレイザーはボストンの約400年の歴史を、単純な「成功都市の歴史」としてではなく、「一連の危機と再編の歴史」として捉えています。植民地期の商業都市、19世紀の海運都市、製造業都市、20世紀後半以降の情報・知識都市へと、経済基盤そのものを繰り返し変えてきたからです。
本稿では、エドワード・グレイザーの論文 「Reinventing Boston: 1630–2003」 を手掛かりとして、港湾都市、海運都市、工業都市、衰退都市、そして知識都市へと変化してきたボストンの400年の盛衰をたどります。
そこから、現在の日本の地方都市や旧工業都市にも通じる、「衰退する都市を再生するためには何が必要なのか」を考えてみたいと思います。
2.第1の繁栄――17~18世紀の植民地商業都市
ボストンの起源は1630年にさかのぼります。ジョン・ウィンスロップらが入植し、1640年には人口約1,200人、1690年には約7,000人にまで増加しました。1740年頃には人口約17,000人となり、植民地アメリカ最大級の都市へと成長しました。
ボストンの初期発展には港湾という地理的条件が重要でした。しかし、グレイザーが重視するのは、港そのものよりも、そこで形成された商人、船員、職人、知識人などの人的資本です。
ニューイングランドは、バージニアのタバコのような高収益の換金作物に恵まれていませんでした。そのためボストンの商人は、魚、木材、家畜など多様な商品を組み合わせ、カリブ海、ヨーロッパ、北米各地を結ぶ複雑な交易ネットワークを構築する必要がありました。こうした複雑な商業活動には、価格情報、航海技術、金融、保険、契約、人的ネットワークなど高度な知識が必要でした。グレイザーによれば、ボストンの商業エリートは情報交換やリスク共有のために日常的に集まり、対面的な情報交換を行っていました。
つまり、ボストンは天然資源そのものによって繁栄したというより、天然資源の不足を知識・商業・ネットワークによって克服した都市でした。
さらに重要なのが教育です。ボストン・ラテン・スクールは1635年、ハーバード大学は1636年に創設されました。当初は宗教的人材の育成が主要な目的でしたが、識字能力や教育を重視する文化は、その後の商業、法律、政治、科学など幅広い分野の人的資本形成につながりました。
この時点ですでに、後世のボストン再生を可能にする「知識を蓄積する都市」という性格が形成されていたと考えられます。

図 ボストン都市圏地図
3.最初の衰退――18世紀後半、ニューヨークとフィラデルフィアへの敗北
しかし、ボストンの優位は永続しませんでした。18世紀後半になるとフィラデルフィアとニューヨークが急成長し、ボストンは植民地最大都市の座を失います。1740年のボストン人口は約17,000人でしたが、1790年でも約18,300人にとどまり、約50年間ほとんど成長しませんでした。
その背景には地理的条件があります。ニューヨークやフィラデルフィアは、ボストンに比べて広大で肥沃な後背地へのアクセスに優れていました。アメリカの経済圏が内陸へ拡大するにつれて、港湾都市の競争条件が変化したのです。グレイザーは、1750~1800年頃をボストンの最初の衰退期と位置づけています。ニューヨークとフィラデルフィアに港湾都市としての地位を奪われたためです。
ここで重要なのは、ボストンが衰退した港湾産業そのものを守ることで復活したわけではないということです。むしろ、港湾活動によって形成された航海技術、商業知識、金融資本、人脈などを別の経済活動へ転換したことが、その後の復活につながりました。
4.第2の繁栄――19世紀前半の海運都市への再生
19世紀に入るとボストンは再び成長します。ナポレオン戦争後の国際情勢の安定や帆船技術の発達によって世界貿易が拡大すると、ニューイングランドの熟練した船員や商人の能力が大きな価値を持つようになりました。ボストンは中国貿易、捕鯨、国際海運などを通じて広大な海洋商業ネットワークを構築しました。
ここでもグレイザーが強調するのは、ボストンの比較優位が単純な港湾施設ではなかった点です。ボストンの比較優位は「港ではなく、そこにいる人々」にありました。航海技術、貿易知識、船舶経営、保険、金融などの技能が集積していたため、ボストンは19世紀前半のグローバル化から大きな利益を得ることができました。
しかし、この繁栄も永続しませんでした。帆船から蒸気船への技術転換が進むと、それまでの高度な帆船航海技術の価値は低下します。セーラムやニューベッドフォードなどニューイングランドの港湾都市の多くは、この転換から十分に立ち直れませんでした。ところがボストンは違いました。
5.第3の繁栄――海運都市から工業都市へ
19世紀半ば以降、ボストンは港湾・海運都市から工業都市へと経済基盤を転換します。
1790年に約1万8,000人だった人口は、1920年には約74万8,000人に達しました。約130年間にわたる大幅な人口増加です。マサチューセッツ州の製造業ではローウェルで繊維工業が栄えていましたが、蒸気機関が普及すると、工場の立地は水力に依存しなくなり、都市のボストンに集まるようになりました。
この工業化を支えた要因の一つが、それ以前の商業・海運によって蓄積された資本でした。中国貿易などから得られた商業資本がニューイングランドの製造業へ投資されました。また、ボストンは鉄道ネットワークの中心地となり、工業製品の生産・流通拠点としての性格を強めました。
さらに重要だったのが移民です。19世紀半ばのアイルランドのジャガイモ飢饉によって、大量のアイルランド系移民がボストンへ流入しました。彼らは単にボストンを通過するのではなく、その多くが都市に定住し、工場労働力となりました。グレイザーは、アイルランド移民が「そこに留まった」ことがボストンの工業化にとって重要だったと指摘しています。
すなわち、商業・海運による資本+鉄道+蒸気機関+移民労働力+既存の職人技能という組み合わせが工業都市ボストンを形成したのです。
この点は都市再生を考える上で非常に示唆的です。ボストンは旧産業を完全に捨ててゼロから新しい産業をつくったのではありません。旧産業のなかで形成された資本・技能・制度を、新しい産業へ転用しています。
6.第2の衰退――1920~1980年の「失われた60年」
ボストンの長い成長期は1920年頃に終わります。1920年から1980年までの60年間で、ボストン市の人口は約75万人から約56万人へ減少しました。全米人口に占めるボストンの比率も0.7%から0.25%へ低下しました。
グレイザーは、この衰退を主に四つの要因から説明しています。
1) 寒い気候
20世紀になるとエアコンや公衆衛生技術が普及し、従来は暮らしにくかった南部・西部の都市の居住環境が改善しました。その結果、寒冷な北東部から温暖なサンベルトへの人口移動が進みました。
2) 自動車時代の到来
ボストンは徒歩、路面電車、鉄道などを前提に形成された高密度都市でした。自動車が主要交通手段となると、道路が広く低密度な新興都市や郊外地域の方が有利になりました。
3) 製造業の衰退
輸送費の低下によって工場は港湾や鉄道駅付近に立地する必要がなくなり、郊外、南部、さらには海外へ移転することが可能になりました。グレイザーは、20世紀半ばには製造業への特化と都市成長の間に強い負の関係がみられたと指摘しています。
4)ボストン市の都市政策
グレイザーは、ボストンの高い地方税や規制、政治的対立も都市から富裕層や企業を流出させる要因となったと論じています。
これらが重なった結果、1980年頃のボストンは現在とはまったく異なる姿となっていました。グレイザーによれば、当時のボストンは寒冷地域にある衰退する旧工業都市であり、ロチェスター、ピッツバーグ、セントルイス、デトロイトなどと同じような将来をたどる可能性も十分にありました。
グレイザーは1920年から80年を衰退期としていますが、1950年代後半からの128号線回廊のコンピュータ産業の勃興については無視しています。
| 《ルート128号回廊――ボストンをハイテク都市へ変えた産業集積》 ボストン郊外を環状に走るルート128号沿線は、1950年代以降、米国を代表するハイテク産業集積へ成長しました。その形成を支えたのが、MITを中心とする大学・研究機関と軍事研究です。1951年設立のMITリンカーン研究所ではレーダーやコンピュータなど先端技術の研究が進められ、1948年設立のBBN(Bolt Beranek and Newman)からも高度な技術や人材が地域へ広がりました。さらに1957年創業のDEC(Digital Equipment Corporation)がミニコンピュータで急成長し、多数の関連企業や技術者を引き寄せました。こうしてルート128号回廊では、大学・軍事研究→技術者→起業→企業集積という自己強化的なハイテク・クラスターが形成されたのです。 |
7.第4の繁栄――1980年代以降の「知識都市」への転換
ところが1980年代以降、ボストンは再び大きな転換を遂げます。製造業中心の都市から、ハイテク、金融、高等教育、医療、専門サービスなどを中心とする都市へと変わったのです。グレイザーは、1980~2000年のボストンについて、「デトロイトよりもサンノゼに似た」都市になったと表現しています。
2000年前後のボストン都市圏では、専門サービス、教育、金融、医療が主要な輸出産業となっていました。特に専門サービスにはコンピュータ関連サービスや法律サービスなど、高学歴人材を必要とする産業が多く含まれていました。
なぜボストンだけが、他のラストベルト都市とは異なる道を進めたのでしょうか。
グレイザーの答えは明確です。
人的資本です。
ボストンにはハーバード大学、MITをはじめとする多数の大学・研究機関が存在し、高学歴人材が蓄積していました。製造業中心の時代には、この大学集積は必ずしも都市経済の中心的資産ではありませんでした。しかしコンピュータ革命と情報経済化によって、高度な知識と技能に対する需要が急増すると、この潜在的な資産の価値が一気に高まりました。しかし、現在はコンピュータ産業よりライフサイエンス産業で有名です。
| 《Biogenとケンドール・スクエア――世界最大級のバイオ産業集積》 MITに隣接するケンドール・スクエア(Kendall Square)は、世界有数のバイオ・ライフサイエンス産業の集積地です。その形成を象徴する企業が、1978年にウォルター・ギルバート(ハーバード大学教授)、フィリップ・シャープ(MIT教授)、チャールズ・ワイスマン(チューリッヒ大学)などの研究者らによって設立されたBiogenです。大学・研究機関から生まれる生命科学の知識を基盤に、研究者、起業家、ベンチャーキャピタルが集まり、製薬・バイオ企業の立地を促しました。その後、Novartis、Modernaなども進出し、大学・研究→起業→資金調達→企業集積→人材流入という循環が形成されました。ケンドール・スクエアは、大学の知識が産業へ転換され、都市再生を促した代表的なイノベーション・クラスターです。 |
グレイザーは、大学と高学歴人口が存在したことが、ボストンと他の旧工業都市との決定的な違いだったと考えています。熟練労働者の存在は、技術産業と専門サービス産業の双方において起業を促進しました。

表 ボストンおよびボストン近郊にある主な大学
8.なぜボストンはデトロイトにならなかったのか
グレイザーの議論で最も重要なのは、都市の衰退を「産業の衰退」と同一視していないことです。製造業はボストンでもデトロイトでも衰退しました。しかし、その後の運命は大きく異なりました。
その違いを生んだのが、都市が新しい経済活動へ方向転換できる能力です。グレイザーは、都市の長期的成功は永久に同じ産業が成長し続けることを意味しないと指摘します。むしろ産業は必ず盛衰するため、都市の存続には方向転換能力が必要です。
ボストンにはその条件がありました。
海運時代には金融・保険が発達し、工業化期には職人的技能と移民労働力が存在し、情報化時代には大学・研究機関と高学歴人口が存在しました。また、一つの産業だけではなく、金融、教育、医療、専門サービスなど複数の産業が存在したことも重要でした。
つまりボストンの再生を、「衰退産業を復活させた成功」と理解するのは適切ではありません。
むしろ、「衰退産業から成長産業へ、都市が保有する能力を再配置した成功」と捉える方が正確です。
9.ボストン再生の核心――「産業」ではなく「能力」が継承された
ボストンの約400年間を整理すると、次のような転換が確認できます。

表 ボストンの変遷(1630年~2020年)
この表からわかるのは、産業そのものには継続性がない一方で、人的資本には継続性があるということです。
帆船は消えました。かつての製造業も大きく縮小しました。それでも、商業能力、金融能力、教育機関、研究能力、起業家精神といった都市内部の能力は別の産業へ転用されました。
グレイザーの議論を一言でまとめるならば、都市にとって重要なのは、「何を生産しているか」以上に、「新しく何を生産できるか」です。ということになります。
10.2003年以降のボストン――グレイザーの仮説は現在も成立するのか
グレイザーの論文は2003年に発表されました。その後20年以上が経過しましたが、Web上の最新データを見る限り、彼の人的資本論は現在のボストンにもかなり当てはまっています。
2020年国勢調査におけるボストン市の人口は675,647人で、2010年の617,594人から大きく増加しました。2025年推計人口は672,973人であり、パンデミック後には若干減少していますが、1980年の約56万人という水準から見ると、人口規模は大きく回復しています。
人的資本の高さも依然として際立っています。2020~2024年のデータでは、ボストン市の25歳以上人口の54.9%が学士以上の学位を保有しています。
産業構造も知識集約型です。2025年6月のボストン都市圏では、教育・医療サービスが非農業雇用の22%、専門・ビジネスサービスが19%を占めています。一方、製造業は約16万4,000人であり、都市経済の中心ではなくなっています。
職業構成をみても、2025年のボストン都市圏では経営職が雇用の9.4%、ビジネス・金融職が9.0%、コンピュータ・数学関連職が4.7%を占めています。平均時給も全職種平均で43.09ドルと、全米平均33.54ドルを大きく上回っています。
さらに現在のボストンは生命科学・医療の世界的集積地となっています。Boston.govによれば、ボストン地域には25の病院と20のコミュニティ・ヘルスセンターがあり、Longwood Medical Areaだけでも科学者、研究者、職員が4万6,000人以上、学生が2万1,000人以上集まっています。Boston.govはさらに、ボストン大都市圏に約1,000のバイオテクノロジー企業が集積しているとしています。
したがって2003年以降の展開を見ると、ボストンは単なる「IT都市」になったのではありません。
むしろ、大学・研究 → バイオ・医療 → 専門サービス → 金融 → 起業という複数の知識産業が相互に結びつく都市へと進化したと考えられます。
これはグレイザーが指摘した「人的資本+産業多様性」というボストンの強みが、さらに強化されたものと解釈できます。
11.成功が生み出した新しい問題――住宅価格
グレイザーは都市再生の指標として、人口増加、所得増加、地価の上昇を挙げています。
グレイザー自身、2003年時点ですでに最大の問題として住宅供給規制を指摘していました。経済が成功して都市への需要が増えても、新規住宅建設が規制によって抑制されれば、人口増加ではなく住宅価格上昇として成功が現れるからです。
実際、1980~2000年にもボストン周辺の住宅価格は急上昇しました。グレイザーは、ボストンの成功が人口増加以上に住宅価格の上昇として現れていたことを指摘しています。
この問題は現在さらに深刻になっています。米国国勢調査局によると、2020~2024年のボストン市における持ち家住宅価格の中央値は73万1,700ドル、家賃中央値は月2,147ドルです。
つまり、20世紀後半のボストンの課題が「衰退からどう脱却するか」であったとすれば、現在の課題は、「成功によって生じた高コスト化をどう管理するか」へと変化しています。
12.ボストンの盛衰から得られる都市再生への示唆
ボストンの事例から、都市再生について少なくとも四つの重要な示唆が得られます。
1) 都市は産業ではなく人材を残す必要がある
造船、繊維、鉄鋼、自動車など特定産業の寿命には限界があります。産業そのものを永続させようとするよりも、その産業によって形成された技術者、経営者、研究者、職人、ネットワークを次の産業へ移行させる方が重要です。グレイザーがボストンの400年の歴史を通じて最も重視するのが、この人的資本です。
2) 産業多様性が都市のレジリエンスを高める
海運が衰退しても製造業があり、製造業が衰退しても金融、大学、医療、専門サービスがありました。複数の能力が存在していたことが、産業転換を可能にしました。
3) 大学は地域政策の道具ではなく、長期的な都市資産
ハーバード大学などの教育機関は、1630年代に現在のバイオ産業やIT産業を生み出すためにつくられたわけではありません。しかし数百年後、その教育・研究機能が都市再生の核心となりました。これは大学は単なる地域政策の道具ではないことを示しています。
4) 都市再生とは今のままでいることでも元の都市に戻ることでもない
ボストンが再び世界有数の港湾都市になったわけでも、1920年頃の工業都市へ戻ったわけでもありません。衰退のたびに異なる都市へと変化しました。
この意味でボストンの再生は「revival(復活)」というよりも、グレイザーの論文タイトルが示すように、Reinvention――都市の再創造と呼ぶ方が適切です。
13.まとめ――「変わらなかったから生き残った」のではなく「変わり続けたから生き残った」
ボストンの400年近い歴史は、商業都市→海運都市→工業都市→衰退都市→知識都市という大きな転換の連続でした。
興味深いのは、それぞれの繁栄を支えた産業が最終的には衰退していることです。港湾都市としての優位も失われました。帆船産業も消えました。製造業も衰退しました。それにもかかわらず、ボストンそのものは消滅しませんでした。
なぜなら、「産業」は失われても「能力」は残ったからです。
商人が蓄積した金融能力、船員や職人の技能、移民による労働力、大学による教育・研究能力、そして高度人材が新しい企業を生み出す能力が、時代ごとに異なる産業へ組み替えられてきました。
したがって、ボストンの盛衰から得られる最も重要な教訓は、「強い都市とは、強い産業を持つ都市ではなく、産業が変わっても新しい産業を生み出せる都市である」ということです。
これは現在の旧工業都市を考える際にも重要です。地域政策の中心を「既存産業をどう守るか」だけに置くのではなく、「地域に蓄積された人的資本・制度・技術・ネットワークを、次の産業へどう組み替えるか」へ移す必要があります。ボストンの歴史は、都市の長期的な存続を決めるものが、個別企業や個別産業以上に、地域の再編能力(capacity for reinvention)であることを示していると言えます。
参考文献・参照資料
エドワード・グレイザー(2012)『都市は人類最高の発明である』NTT出版
U.S. Bureau of Labor Statistics (2025), Boston Area Employment — June 2025.
City of Boston, Healthcare and Life Sciences.
City of Boston, Boston’s Open for Business.
City of Boston, Boston’s Economy in 2024.
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